特定非営利活動法人 NPOひょうご農業クラブ のご紹介
NPOひょうご農業クラブは 実質的な活動を始めて、今年(平成31年)で20年になりますが、その構想の下敷と
なったのは、さらに溯れば増田の少年時代の体験が大きく影響していると想像できます。例えば、地域福祉に「食」を中心に考える。
それも有機野菜を自分たちで栽培して使うといった発想は、それなりの体験となんとかなるという自信がないと生まれてこないと
思われます。増田は、昭和20年の小学校(当時は国民学校)3年の秋ごろから田畑の作業の手伝いを始め、中学生のころは
50アールほどの米、野菜の栽培を ほとんど自分でやれるようになっていたといいます。
増田は、1959年3月 中央大学法学部を卒業して、灘生活協同組合(現コープこうべ)に入職し、職員として25年、
役員として15年勤務してきました。
1960~1970年代は、戦後の高度経済成長時期にあり、食品業界では粗悪な製造工程から危険な製品が市場に流れ、
多くの人たちを死にいたらしめたり、障碍(しょうがい)を残すような惨事が続きました。
森永のヒ素ミルク事件や カネミ油症事件など、食品公害の時代でした。消費者の食品の安全性に対する関心が高まり、
消費者運動、生協設立の気運が盛んになりました。生協は 食の安全性の確保に懸命に取り組んできて食の安全の砦となったのです。 日本の有機農業は そんななかから始まっていき、コープこうべも消費者、食べる側から その運動にかかわるようになっていきました。
そんな体験が 有機の野菜づくりに一直線にすすんでいったことに結びついています。
(1)野菜づくりを始めたころ
1999年6月増田は コープこうべを退職したと同時に野菜づくりを始めました。作業は コープこうべの仲間や友人たち20人ほどですすめましたが全員素人で暗中模索、今から思えばひどいものでした。
①玉葱の苗 20,000本の定植から
、上郡の借りた畑に11月玉葱栽培からとりかかりました。20,000本の玉葱を定植するのにどれほどの面積が必要なのか、
収穫をしたあと、どのくらいの量になって、それを保管する場所はあるのかなど 分からないままで突入するのですから、無謀もいいところのひどさでした。
②「あんたらは 野菜をつくっているんか、草をつくっているのか どっちやねん」
赤穂市高雄の真殿というところで人参やごぼう、里いもなどの苗を定植し、真夏の暑いさなかに草取り作業をしていました。
参加者は 全員有職者でボランティアですから日曜ごとの作業ですので草が大きく育っています。
近所のおばあさんが 見にきてくれて声をかけてくれます。
「あんたらは 草をつくりにここまで来とんかいな」と笑いながら言われる始末でした。
③収穫物をどこで売るか?
とれた野菜をどうするかも決めないままに種まきや苗植えをしていました。 いよいよ収穫をという直前になって、神戸市の六甲アイランドのファッションマート前の広場を借りて週1回の朝市を始めました。
そんなこんなで失敗続き、泥縄式のあけくれでした。
④店がないので宅配販売を開始しました。
六甲アイランドの住民のみなさんを中心に野菜の宅配を数年続けました。
(2)レストランを開店し、店の中や前で野菜を売るようにしました。
①「こどもたちに 無農薬のおいしい野菜を食べさせてやってください」
若いお母さんたちに そう訴えるのですが なかなか聞き入れてもらえませんでした。考えに考えて、こどもとお母さんがいっしょに
野菜を食べる会をレストランで始め、その次に 親子料理教育、こども野菜クラブへと発展させていきました。
その間、5年ほど 土井信子先生に 料理教室を月に一回ボランティアでお願いしました。ご存知の料理家の土井喜晴先生のお母さんです。
お陰さまで、今では大勢の幼児づれのお母さんたちが店に買い物に来てくださるようになりました。
②相生市の旭本町商店街に「よりあいクラブ旭」を開店
商店街の中の1店を借りて、食堂と野菜売り場をつくり、食堂から高齢者向けの給食弁当を配達しました。
15年間続けて平成30年3月31日に閉店しました。
この活動は わずかな有償の全員ボランティアで続けてきました。
給食活動をする第2、第3の事業所を市内の緑丘と古池に開業しましたが、残念ながら平成31年3月31日で終業することになります。